「綿谷新」と和歌考察

「わたのはらや」は兄弟札…ちはやふる小説版2巻では、新と「わた・や」の札の関係性をそう呼んでいる。ここでは新と和歌の関連について考察してみようと思う。


わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人の釣舟



小野篁の歌。
「わたの原」とは大海原のこと。「わた」は海の古語であり「わたつみ」「わたのかみ」とは日本神話の海の神、転じて海・海原そのものを指す場合もある。
わたつみ(海神)は綿津見ともいい、新の苗字である「綿」という漢字はここから来ていると思われる。

小野篁

小野篁(802~852)は、平安初期の歌人、文学者。小野妹子の後裔で、歌人・漢詩人として知られた岑守の子。
遣唐副使に任ぜられた篁は承和5年 (838年)、その役目を病と称して渡航せず、隠岐国に流罪にされた。

この事件はそもそも、遣唐大使が自分の船に水漏れを見つけ、それを無理やり副使である篁に押し付けたことにある。いわゆる上官の権威を振りかざしたパワハラ行為であり、篁が怒り心頭になるのも無理はない。
「西道謡」という漢詩をつくって渡唐を批判しその罪により流罪にされたと伝えられてはいるが、このドタバタ劇で遣唐使が延期になった上官の責任と朝廷への批判をかわすため、2年という期限を設けて副使に罪を被せたのではないかという説もある。

当時の流罪は死罪と同じほどの重い罪であったにも拘らず、たったの2年で罪が赦され何事もなかったかのように復職し参議にまで登りつめてしまうあたり、それとなく大人の事情を伺い知ることが出来る。
篁は賢明な人だったので周りの思惑に薄々気が付いていたのではないだろうか。今から隠岐に流されるというのに「わたの原」という雄大な大海原の語句を歌の冒頭に持ってくるあたり、孤独ながらも彼の剛健で気骨あふれる精神がこの歌に感じられるのである。


「わたのはらや」は福井に縁の深い歌でもある。
篁は都へ帰る途中、海上で強い西風にあって田烏海岸(福井県若狭湾)に漂着し、保養のためそこで3年間滞在したという。
若狭町無悪山安楽寺には篁が信心していたといわれる観音菩薩像が安置され、小野篁の墓と伝えられる宝篋印塔が2基ある。


わたの原漕ぎ出でて見れば久かたの 雲ゐにまがふ沖つ白波



この歌は篁の歌をイメージして詠われたと言われているが全く意味が異なる。
青い空に白い雲、大海原には白い波が続く。まさに「半分、青い。」状態ww
その情景は爽快で開放感あふれ、権力の絶頂にあった藤原氏らしい雄大かつ豪壮な歌と言える。

「わた・や」が孤独感を感じさせるのであれば、「わた・こ」は未来への希望の歌。どちらも新を表すものとして10巻56首に添えられている。オフィシャルファンブックでは新の好きな歌となっている。

「白波」は原田先生の所属する「白波会」を表している。
原田先生の元で数か月師事していたこと、また南雲会モデルである福井渚会の情熱が、新を通して白波会へと受け継がれていることも意味しているかと思う。「いつか名人を」という言葉は連載当初の福井渚会の長年の悲願であった。

36巻187首、西日本予選決勝において新が「わた・こ」をえぐりとっている姿が特に印象深い。


嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけり



新が千早からとった一枚目の札。
この歌には紅葉と深く結びついた「三室の山」と「竜田の川」の二つの歌枕が用いられており、龍田大社HPには龍田大社に関する和歌として「ちはやぶる」とともに紹介されている。

また竜田川両岸にある竜田公園では、麓の石垣に能因法師と有原業平の歌が刻まれた歌碑が飾られている。


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ここからは想像ではあるが、カルタの世界の恋物語という構想を練る際、偶然選ばれたのが「ちはやぶる」と「あらしふく」だったのではないだろうかと思う。
理由としてこれらが同じ題材を持つ仲良しペアであること。しかも「ちはやぶる」は激しい恋愛感情を内に秘めていて、少女漫画にはうってつけの歌である。
「ちはやぶる」を持つ女の子が千早という名前になるのなら「あらしふく」を持つ男の子は「あら」もしくは「あらし」が付く名前になる。
そこでモデルとして採用したのが、当時人気のあったイケメン眼鏡男子、映画ピンポンの井浦新さんだった。

…と、こればかりは作者しか知らないことなので、違っていたらすみません。



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めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな



7巻36首にて新に掛かっている歌。
996年(長徳2年)、紫式部の父である藤原為時が越前守に任ぜられ、母親を幼くして亡くしていた紫式部は京から父とともに越前国へ下っている。
紫式部が生涯でただ一度だけ生活の地を移したのが越前国であった。越前国府は現在の福井県越前市武生のあたりである。
福井の深い雪に嫌気がさしていたという謂れは残っているが、京の華やかさとは全く違う一年半の生活は、後の文学活動へ少なからず影響したのではないかと思う。


瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ



新から千早が最初に取った札。31巻では新がガリガリに狙って取り返している。考察はこちら


難波潟みじかき芦のふしの間も 逢はでこの世を過ぐしてよとや



難波潟ー芦の群生地ー芦原ー新の繋がりとして37巻189首に使われたのではないかと考察した。記事はこちら


新(あらた)しき年の始めの初春の 今日降る雪のいやしけ吉事



大伴家持。新しい年の始めの初春の今日降っている雪が積もり重なるように、良いことがもっと重なれ、という歌。
新年を迎える喜びの気持ちとともに、まだ誰も足を踏み入れない一面のまっさらな雪というのは、今から何かが始まるようなワクワクした思いが溢れてくるものである。
歌の中には「新」と祖父の名前である「始」が使われ、白い雪は福井をイメージさせる。
万葉集収録の約4,500首の最後を飾る特別な歌であり、まさにカルタの神様に相応しい歌と言えよう。


竜田川もみぢ葉流る神なびの  三室の山に時雨降るらし



古今和歌集、読人知らず。竜田川に紅葉が流れている、その上流の「神なびの三室の山」には時雨が降っているのだろう、という歌。
この歌を踏まえて詠まれたものが「あらしふく」の歌である。
千早と新が出会うとき雨が降りやすいのは、この歌があるからかな?と思うのだが、さてどうだろうか。


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安楽寺訪問



先日ドライブがてらに篁の墓があるという若狭町無悪山安楽寺へ行ってきた。車で30分ほどです。


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近くを走る舞鶴道の喧騒もさほど感じず、田んぼの中の集落にひっそりと佇んでいたその静けさが大変心地よいものであった。


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小野篁の墓と伝えられる宝篋印塔。


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京から離れていた2年間の篁の思いはどうだったのだろうか。
「わたの原」を誰に詠んだのかは分かってはいないが、誰か特別な人に会いたいと思う魂の引力は今も昔も変わらない。

さて篁には面白い噂があった。閻魔大王の副官として冥界を行き来していたと恐れられていたそうだ。
京都市北区にも篁の墓所が建てられているが、なぜか隣には紫式部の墓がある。愛欲を描いた咎で式部は地獄に落とされしまったそうで、彼女を助けてくれと願った式部ファンが、勝手に篁の墓を彼女の墓の隣に移動させたそうである。
200年ほど時代の違う二人は何の面識もないから、いきなり墓を隣にさせられて篁もさぞやあの世で目を白黒させたことだろう。

いつの時代でも、行き過ぎたファンの行動というものはダメですね。自戒を込めて自重するべきだなあと思います。
posted by とかさま at 00:00考察