ちはやふる1巻感想---千早と新

一巻の表紙は小学生の千早。でもロングヘアだから高校生かもしれない。背景の花はミニバラ、ガーベラなど。折り返しの歌は「ちはやふる」


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この感想は40巻までを読んでの感想となっております。2巻以降のネタバレを含んでいますので、くれぐれもご注意ください。


主人公の千早と福井からの転校生・新の出会いから、この物語は始まる。新の競技カルタへの並々ならぬ情熱は、千早の中にある何かを大きく動かす。千早のカルタの才能をいち早く見抜き、「綾瀬さんはクイーンやの」という明確なビジョンを授けることで、千早は「競技カルタで日本一になりたい、いや世界一になりたい」という大志を抱くことになった。

千早にとっての新とは、競技カルタの楽しさとその情熱を伝えてくれた特別な人であった。しかしこの二人の関係性って非常に不思議だ。第1首で千早が「わたしは新の一番弟子」とはしゃぐ割には、今の師匠は紛れもなく原田先生である。憧れやライバル的な存在なのかといえばそうでもなくて、その役割は詩暢となっている。夢は「新に勝つ」ことではなく「クイーンになって世界一になる」ことだ。瑞沢の仲間や白波会のメンバーでもないし、じゃあ千早にとって新とは一体何なの?と疑問に思うことがある。はっきりと答えを出しているのが「新の情熱を受けて立てる人間になりたい」ということだが、では受けて立てる人間とは、具体的にどのようなことを指すのだろうか。


通過点と到達点



二人を見ていてよく思い出すのが、漫画「ヒカルの碁」の主人公ヒカルと藤原佐為の関係である。作中最強の棋士である幽霊の藤原佐為は、神の一手を極めるためにヒカルに取り憑き囲碁を指南するが、ヒカルのライバルは佐為ではなく同世代の塔矢アキラであった。塔矢アキラに勝ち、神の一手を目指すという目的のために、ヒカルは佐為に追いつこう、追い抜こうと努力を積み重ねていた。ヒカルにとってアキラは夢と憧れであり、佐為はそれに到達するための目標、つまり通過点に過ぎない。


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これを千早、新、そして詩暢に当てはめるとよく分かる。ヒカルは千早、佐為は新、そしてアキラは詩暢である。千早にとって新は詩暢という夢に向かうための手段であり目標なのである。(ちなみにアキラはヒカルの中にいる佐為に猛烈なライバル心を燃やしていたが、これもまた詩暢と新の関係によく似ている。)

目標というものはそれが達成されてしまうと、過ぎ去ってしまった通過点としていずれは消えてしまう。佐為には作品の中盤である重大なことが起こるが、それはヒカルが神の一手に気が付いて佐為という目標を超えてしまったからである。佐為は幽霊だからこれ以上成長することができない。だからどうすることもできなかった。

千早もまた、三年の高校選手権で新という目標を超えてしまった。仲間という存在を強力な武器にして、新からとうとう勝利をもぎ取る。恐らくこれが「情熱を受けて立てる人間になりたい」の意味するところではないだろうか。つまり新と対等に戦って勝利するほど強くなるということである。この目標達成により、新という通過点は一旦消えてしまう。

しかし新は幽霊の佐為とは違い、生身の人間だ。人間には成長する力がある。もっと強くなることができる。その後、新は個人戦で詩暢に勝って見事優勝するが、これは自分の力を証明するという、新の見せた男の意地でもあった。試合後に見せた、千早への自信あふれる顔(つまりドヤ顔)にはそれがよく表れている。「俺も仲間の力で強くなった。もう一度、千早もここまで来るなら来てみろ」と。一旦到達したかのように見えた千早の目標は、新の勝利でさらにレベルを引き上げられ、千早の負けん気を大いに刺激し、彼女の情熱を再び沸騰させることになる。常に人の上に立ちたいという新の性格は、格下を見下してしまうという弊害を伴うけれども、自分を、そして周りをも強くしてくれる原動力でもあり、長所ともなりうるのである。

このように、新には常に人の前に立っていたい、人よりも前に進んでいたいという底知れぬ貪欲さがある。新にとっての千早は大切な仲間ではあるが、千早のために自分が目標、つまり単なる通過点になろうなんて、きっとこれっぽっちも望んでいない。あくまでも自分は到達点でいたいというプライドがある。たとえそれを普段は自覚していなくても、だ。だから第4首、ヒョロとの対戦で千早に「ふくからに」を取られたときは、彼女がチームの一員であるにも関わらず激しく嫉妬してしまった。また東西戦で太一と戦った時に「太一にとって自分は通過点だ」と気づいてショックを受けたのは、自分こそが到達点であり、他は通過点でしかないという驕り(作中で邪念と呼んでいるもの)を思わず直視してしまい、アレルギーのように過敏に反応したからである。新が心底欲しているものは、千早の目指す先には必ず自分がいるという絶対の自信だ。

一方、千早にとっての夢、つまり到達点には詩暢がいる。三年の個人戦で「詩暢はわたしの絶望と憧れ」と、はっきり自覚している。新のことは尊敬はするものの、夢に到達するための通過点にすぎない。しかし新を乗り越えれば確実に詩暢に近づける。千早は「詩暢に勝ってクイーンになる」という夢を叶えるために、新の情熱を受けて立てる人間になろうと必死に努力している。

新は千早の到達点になろうとして強くなる。
千早は強くなった新を通過点として、詩暢に近づこうとする。
通過点ではないという存在意義を見せるため、新はさらに強くなる。
さらに強くなった新を、千早は再び乗り越えようとする。
……


こうして二人はブロックを交互に積み重ねていくように、上へ上へと自らを高めていくことになる。それがいつか富士の高みにまで昇ることを目指して。東西戦が終わり、今よりもっと強くなりたいと願った時に二人の思いが繋がったのは、いたって自然の流れだったといえよう。なぜなら二人は刺激し合うことで、より強くなれるのだから。だからどうしても無意識のうちに相手を求めてしまう。千早のとっての新、そして新にとっての千早とは、自分たちが強くなるためにも決して離れることのできない、かけがえのない存在なのである。

祖父と父との喧嘩が原因で東京に引っ越してしまった新だけれども、見方を変えればそのお陰で千早に出会え、彼女のお陰でより強くなることができた。千早に秘められたカルタの才能もまた、新によって引き出された。千早と新の偶然の出会いは、二人を富士の高嶺へ導くため、そして二人の強さによってカルタ界がより豊かになることを願っている、カルタの神様がもたらした粋な計らいだったのかもしれない。



次回209首感想は、若干遅れます。